
選挙終盤になって突然の長文メッセージ。長いよ!?
これを見て「感動した」と思う有権者がどれほどいるだろうか。
熱意と文章の長さは比例しないよ…
中道改革連合の野田佳彦共同代表が公式サイトに投稿した「緊急メッセージ」を読んだ。
率直な感想を述べれば、これは政策を語る文章ではない。情に訴えて票を乞う泣き落としである。
「野合とか選挙目当てといった単純な言葉で瞬殺されてしまうのは、ただただ、悲しい気持ちです」
こう綴る野田氏の心情は理解できなくもない。
しかし、悲しいと言われても困るのだ。有権者は政治家の感情を癒すために投票するわけではないのだから。
「野合批判」への反論が野合の証明になっている皮肉
野田氏は文中で「野合」というレッテル貼りに強く反発している。
与党内にも原発や夫婦別姓で意見が割れる議員がいるのに、なぜ野党の協力だけが野合と呼ばれるのか。フェアではない、と。
一見もっともらしい主張に聞こえる。だが、ここには決定的な論理のすり替えがある。
与党内で政策に異論を持つ議員がいることと、選挙直前に複数の政党が急遽合流して新党を立ち上げることは、まったく次元が違う話だ。前者は党内議論の健全さを示すもの。後者は選挙を前にした数合わせ、まさに選挙互助会と呼ばれても仕方のない行為である。
野田氏自身が認めているではないか。「突然の解散に間に合わせるため、本来は精緻に整えるべき仕上げの部分に完璧ではない点がある」と。つまり、政策のすり合わせも組織づくりも不十分なまま、とにかく選挙に間に合わせることを優先したということだ。
これを野合と呼ばずして何と呼ぶのか?
「もともとの公明党の綱領と立憲民主党の綱領を見比べてみていただくと一目瞭然です」と野田氏は書く。しかし、綱領が似ていることと、選挙直前に慌てて合流することの正当性は別問題である。似た理念を持っていたなら、なぜもっと早く合流しなかったのか。その問いに対する答えは、この長文メッセージのどこにも書かれていない。
「熟議」を語る資格があるのか
野田氏はメッセージの中で繰り返し「熟議」の重要性を訴えている。少数与党下で芽生えた熟議の国会を守りたい、数の力で押し切る政治に戻してはならない、と。
言葉としては美しい。しかし、この主張をしているのが、十分な熟議もなく急ごしらえで新党を立ち上げた当事者であるという事実が、すべてを台無しにしている。
党内での熟議は尽くされたのか。支持者への説明は十分だったのか。政策の整合性は精査されたのか。答えはすべて否だろう。「ヨチヨチ歩きの新党」「出来たてのホヤホヤ」という野田氏自身の表現がそれを物語っている。
熟議を大切にすると言いながら、自分たちは熟議を省略する。この矛盾に気づいていないのか、気づいていて無視しているのか。どちらにしても、有権者を説得する材料にはならない。
野田氏は高市政権の解散を「大義なき党利党略解散」「自分ファースト解散」と批判する。しかし、選挙直前の新党結成は「党利党略合流」「選挙ファースト合流」ではないのか。他者を厳しく批判する言葉が、そのままブーメランとなって返ってくる構図である。
「決して決して決して諦めません」という三連呼。「最後の最後の最後まで」という繰り返し。文章から伝わってくるのは、政策への自信ではなく、追い詰められた者の悲壮感だ。
選挙情勢が厳しいことは野田氏も認めている。だが、その原因を「レッテル貼り」や「ワンパターンの批判」に求めるのは責任転嫁というものだろう。有権者は見ているのだ。選挙直前に何が行われたかを。
「生活者ファースト」を掲げる野田氏。その理念自体に異論はない。だが、生活者の目線に立つなら、まず自分たちの行動を生活者がどう見ているか、冷静に考えるべきではないか。
選挙互助会と揶揄される合流劇。それを正当化するための長文メッセージ。この流れ自体が、中道改革連合という新党の限界を示している。熱い思いを語れば語るほど、政策の空洞化が透けて見えてしまう。
有権者が求めているのは、感動的な物語ではない。具体的で実現可能な政策と、それを実行する能力への信頼である。泣き落としで票を得ようとする姿勢こそ、古い政治そのものではないだろうか。



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