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民主主義の根幹を揺るがし銃弾で人を撃ち抜いた山上徹也が控訴 同情論に流されてはならない理由

山上被告

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あの日から2年半以上が経ったいまも
わたしの胸には深い傷が残っている。

2022年7月8日、奈良市の近鉄大和西大寺駅前。
参院選の応援演説中だった安倍晋三元総理が手製のパイプ銃で撃たれて命を落とす。
民主主義の根幹である選挙活動の最中に起きた前代未聞の凶行だった。

山上徹也被告に対し奈良地裁は1月21日、無期懲役の判決を言い渡した。
2月4日、弁護側はこの判決を不服として大阪高裁に控訴した。

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「生い立ちの不遇」は犯行を正当化しない

裁判では、山上被告の生育環境に多くの注目が集まった。
母親の旧統一教会への入信、多額の献金、それによる家庭崩壊。
たしかに、彼の人生が困難なものであったことは否定できない。

しかし、奈良地裁の判決は明確だった。

「生い立ち自体は不遇な側面が大きく、旧統一教会に激しい怒りを抱いたのは理解不能とは言えない」と一定の理解を示しつつも、「銃などを製造して他者の生命を奪うことを決意した意思決定には、大きな飛躍がある」と指摘。

さらに踏み込んで、こう断じている。
「自らの都合を優先させて安倍氏襲撃を決意したものにほかならず、短絡的で自己中心的な意思決定過程だ」と。

この判断は、極めて妥当だとわたしは考える。

世の中には、山上被告以上に過酷な環境で育った人がたくさんいる。
それでも多くの人は、暴力という手段を選ばない。
合法的な方法で問題解決を模索し、社会のルールの中で生きている。

不遇な境遇が同情を誘うのは理解できる。
だが、それと犯罪行為の正当化は、まったく別の話なのだ。

「テロリストへの同情」という危険な風潮

事件後、一部のメディアやSNSでは山上被告に同情的な論調が広がった。
「彼も被害者だ」「旧統一教会こそが悪い」という声が、驚くほど多く聞こえてきたことを覚えている。

もちろん、旧統一教会の問題は深刻であり、被害者救済は急務だ。
その点に異論はない。

しかし、だからといって、暴力による「私刑」が許されるわけがない。

考えてみてほしい。
もし「動機に同情できれば殺人も仕方ない」という論理がまかり通れば、どうなるか。
法治国家の根幹が揺らぐ。
気に入らない相手を暴力で排除することが、「事情次第では許容される」という恐ろしい社会になってしまう。

山上被告が奪ったのは、一人の人間の命だけではない。
選挙という民主主義の根幹を、暴力で踏みにじったのだ。
この重大性を、わたしたちは決して忘れてはならない。

控訴という選択が意味するもの

弁護側は「検察側の主張をそのまま認めた判決で、量刑も含めて全面的に不服」という姿勢を示しているという。

法的手続きとして控訴する権利があることは当然だ。
被告人の権利は守られるべきであり、それ自体を批判するつもりはない。

ただ、わたしが気になるのは、この裁判がどのように報じられ、世論がどう形成されていくかという点だ。

すでに事件直後から、山上被告を「悲劇のヒーロー」のように扱う風潮が一部にあった。
控訴審でも、そうした同情論が再燃するのではないか。
その懸念を拭えないでいる。

被告の生い立ちや動機を詳しく報じることは、ジャーナリズムとして必要かもしれない。
しかし、それが犯行の「美化」につながってはならない。
そのバランスを、メディアには強く求めたい。

法の下の平等とは何か。
民主主義社会における暴力の否定とは何か。
この裁判は、わたしたち一人ひとりに問いかけているように思える。

どんな理由があろうとも、テロは許されない。
この原則だけは、絶対に譲ってはならないのだ。

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