
信頼を裏切り国を危うくする。
報道機関がそんな存在になっていいのだろうか。
12月18日夜、共同通信は首相官邸の安全保障担当幹部が「私は核を持つべきだと思っている」と発言したと報じた。
この発言はオフレコを前提にした非公式取材の場で出たものである。
本人も「コンビニで買ってくるみたいにすぐにできる話ではない」と現実的ではないことを認めていた。
しかし共同通信は、その文脈をほぼ無視した。
冒頭からショッキングな見出しで読者の脳に「政権中枢=核武装論者」というイメージを叩き込む構成。
「唯一の戦争被爆国」「政府の立場を著しく逸脱」と畳み掛け、まるで国家が暴走しているかのような恐怖を煽っている。
これは報道ではないと感じた。読者の感情をハックしようとする認知戦そのもの。
同じ素材でも伝え方は変わる 日経が示した報道の矜持
興味深いのは、同じ発言を伝えた日本経済新聞との違いである。
日経は共同通信の配信記事をそのまま垂れ流さなかった。
共同が仕込んだ「被爆国としての逸脱」「国内外で反発」といった感情的な文言をバッサリと削除。
代わりに、米ロ間の核軍縮の流れや中国の核戦力増強という国際安全保障の文脈を加筆している。
共同通信は「怒りを感じろ」と読者を誘導した。
日経は「この発言の背景にある安全保障環境を考えてみよう」と問いかけた。
同じ素材を使いながら、メディアの体質と記事の質がこれほど鮮明に分かれるものかと愕然とした。
共同通信の記事には、他紙が報じた「個人的意見」という注釈すらなかった。
事実を正確に伝えることより、自分たちが描きたい物語を優先させた。
そう批判されても仕方のない構成になっている。
オフレコ破りがもたらす深刻な副作用
そもそもオフレコ取材とは何か。
政治家や官僚の本音を引き出し、公式見解だけでは見えない政策の背景を理解するための手法である。
記者と取材対象者の間に信頼関係があって初めて成り立つ。
日本新聞協会は「その約束には破られてはならない道義的責任がある」と明言している。
元特捜部検事の前田恒彦氏も指摘するように、オフレコ破りは法的責任を問うことが難しく、結局は報道倫理の問題に帰着する。
河野太郎衆院議員は「次からはそうしたメディアがオフレコの場から排除されても仕方がない」と批判した。
玉木雄一郎国民民主党代表も「オフレコの話を記事にするメディアも問題では」と疑問を呈している。
政治家たちがこれほど強く反発するのには理由がある。
一度でもオフレコが破られれば、取材源は口を閉ざす。
ほかの情報提供者も萎縮し、本音を語らなくなる。
結果として、国民に届く情報の質と量が低下してしまうのである。
「報道の自由」「国民の知る権利」という大義名分を掲げながら実際には知る権利を阻害する。
なんとも皮肉な構図ではないか。
さらに深刻なのは、この報道を受けて中国が早速「非難」を始めたことである。
共同通信は国益を損ねる世論誘導をしたという批判も出ている。
オフレコの場での発言を、文脈を歪めて報じた結果、外交的な火種を作ってしまった。
冷静に考えてほしい。
官邸幹部は高市早苗首相と三原則見直しについて「話していない」とも述べていた。
個人的見解であり、政権として核武装を進めるわけではないことは明白だった。
それを、あたかも政権が核武装に舵を切ったかのように印象操作する。
これは罠と呼ぶべきではないか。
厳しい安全保障環境の中、日本がどう生き残るかを真剣に議論すること自体は必要なことだろう。
しかし共同通信は、その議論の機会すら潰してしまいかねない報道をした。
メディアリテラシーという言葉がある。
情報を鵜呑みにせず、発信者の意図を見抜く力のことだ。
今回の件で改めて実感したのは、どのメディアが何を伝えようとしているのかを見極める目が必要だということ。
同じニュースでも、共同と日経ではまるで別物になる。
わたしたち読者こそが
報道の質を問い続けなければならない面倒臭い世の中になった。

