
鏡を見てほしい、心からそう思った。
立憲民主党の泉健太前代表が2026年の元日、新年のあいさつをXに投稿した。
「日本を伸ばすために頑張る」という至って普通の内容。ところが、その投稿に批判的なコメントが寄せられると、泉氏は同日夜に異例の反論を展開する。
「この投稿にまで批判的なコメントする人、まさにあなたは『何でも批判』の人になってます」と。
しかし待ってほしい。
国会で与党に対して徹底的な批判姿勢を貫いているのは、ほかならぬ立憲民主党ではないか。
泉氏の発言は、まさに自分自身にブーメランとして突き刺さっている。
新年のあいさつへの批判を批判する矛盾
泉氏は投稿で「そんな投稿、しんどない?前向きに一年を過ごしましょうよ」と呼びかけた。批判する人々に対して、まるで説教するような口調だ。
確かに新年のあいさつに批判コメントを寄せる行為は、些か大人げないかもしれない。ただ、わたしたち国民からすれば「あなたたちこそ」という思いが拭えないのである。
立憲民主党は国会で何をしてきたのか。与党の政策に対して建設的な提案をするよりも、言葉尻を捉えた批判を繰り返してきた。
高市早苗首相の所信表明演説では執拗なヤジを飛ばし、予算委員会では揚げ足取りのような質問を続ける。
岡田克也元幹事長による台湾有事をめぐる質問は象徴的だった。11月7日の衆院予算委員会で、岡田氏は高市首相に対して「どういう場合に存立危機事態になるのか」と執拗に問い続けた。
首相が政府見解を繰り返しても同じ質問を繰り返す姿勢に、SNS上では「しつこい」「意地悪だ」という批判が殺到したほどである。
新年のあいさつへの批判は許せないが、国会での執拗な批判は正当化される。この二重基準こそが、国民の不信感を招いているのだ。
批判は野党の使命という開き直り
立憲民主党の姿勢は一貫している。批判こそが野党の役割、という考え方だ。
泉氏が代表に就任した当初は「提案型」を標榜していた。しかし2022年の参院選で敗北すると、あっという間に批判路線へと回帰する。
岡田克也氏が幹事長に就任した際には「批判は野党の使命」と明言したほどである。
たしかに野党には政府を監視する役割がある。しかし、それは建設的な批判であるべきだろう。政策の問題点を指摘し、対案を示す。これが本来の野党の姿ではないか。
ところが立憲民主党の「批判」は、しばしば言葉狩りに終始する。政策の中身ではなく、表現の仕方を問題視する質問が目立つのだ。国民が求めているのは、暮らしを良くする具体的な提案である。揚げ足取りではない。
泉氏自身、かつて「からっキシダ」など、キャッチーな言い回しで岸田前首相を批判してきた。「いいねは押せない言い値予算」という表現も使っている。
政府の政策に対して、ここまで辛辣な批判を繰り返しておきながら、自分への批判には「しんどない?」と甘えた言葉で返す。
この姿勢が、どれほど国民の目に映るか。考えたことはあるのだろうか。
立憲民主党は1日、公式Xで「分断と対立をあおる政治に終止符を打つ」と宣言した。美しい言葉だ。
しかし、国会で対立を煽っているのは誰なのか。与党の政策を「何でも批判」しているのは誰なのか。
答えは明白である。
建設的な野党へ生まれ変わる時
わたしは特定の政党を支持していない。ただ、日本の政治がより良くなることを願っている。
そのためには、与党だけでなく野党の存在も不可欠だ。政府を監視し、多様な意見を国会に反映させる。これは民主主義の根幹である。
だからこそ、立憲民主党には変わってほしいのだ。「何でも批判」の姿勢から脱却し、真に国民のための政策を提案する野党へと。
泉氏は「前向きに一年を過ごしましょうよ」と呼びかけた。その言葉を、まず立憲民主党自身が実践してほしい。
国会で前向きな議論を展開してほしい。建設的な提案を示してほしい。
批判する相手を「何でも批判の人」と批判する前に、自分たちの姿勢を見つめ直す必要がある。ブーメランは投げた本人に戻ってくるものだ。
2026年、立憲民主党が本当に「分断と対立をあおる政治に終止符を打つ」のであれば、まず自らの国会運営を変えるべきだろう。言葉だけでなく、行動で示してほしい。
国民は見ている。
言行不一致の政党に、政権を任せることはできないのだから。

